「日本仏教の展開に伴う特質」
本レポートにおいては、15世紀間の長い歳月にわたり、仏教が日本で変容し、日本社会と共に発展をし続けてきた。実際に仏教が日本社会に及ぼした影響が計り知れないと思われるものの、日本仏教ならではの特質をめぐり、日本仏教史の原点である仏教伝播に遡り、各時代を下りつつ、簡潔に考察していきたい。
元来、日本の仏教は、百済の国から軍事支援が要求され、大和朝廷が国を統治すべく導入した宗教である。仏教の受容は、仏教国であること、または文明国であることを東アジアとの貿易促進を目標に宣言されたものとして十分考えられる。古代の日本において、仏教を取り入れる有無をめぐり、廃仏派と崇仏派の間、摩擦が生じたが、最終的に推古天皇の摂政であった聖徳太子によって、本格的に仏教を礎にした中央集権型が設定されたのである。聖徳太子は、「十七条憲法」の第二条に、「篤く三宝を敬へ、(中略」」[1]と執筆し、「鎮護国家」としての仏教が誕生した。このような歴史を背景に、701年に大宝律令には、「僧尼令」が編纂された。この律令により、平安時代まで、日本仏教は皇族や貴族に支持され、僧侶は「官僧」となり、政府の保護を受け、官僚としての役割を果たした。中世の日本に取り入れられた仏教は本来の姿から遥かに異なり、超越的な呪力のある宗教として認識されていた。つまり、武力による支配ではなく、さらなる重大な恐怖となるように、人々に永遠に免れようのない宗教観がもたらされた。敢えて言えば、死後の世界として策謀された、「地獄」という概念により、この宗教支配が成立したのではないだろうか。何故なら、このような政策の本質は、民衆が一向に救済されようのない地獄を提示する企みに応じ、そこへ堕ちる恐怖が増し、それに伴って仏教への抑圧が成立したことが根本的な目標だったと考えられるからである。このように、国家と仏教は密接に結びつかれ、宗教を通じて国民が支配されたのである。さらに、顕密仏教の基盤となった俊秀の最澄と空海の開いた宗派も例外ではなかった。天台僧は、「聖徳たいし信仰」、すなわち徳太子を釈迦牟尼と認識した上で、これを礼拝の対象とし、人々への支配力を向上させた。一方、空海は、「綜芸種智院」などを建築し、民衆教化に努めたにもかかわらず、空海没後は、国家の安泰をめぐる修法が徐々に弘法大師信仰に誘導されることになり、いっそう国民への手綱が引き締められたと言っていいだろう。このように、顕密仏教は庶民に人気のある「末法思想」を皮切りに、「聖徳たいし信仰」や「弘法大師信仰」などを導入し、自らの立場を維持させると同時に、人々を精神的に及び経済的にも管轄しようとしたということになったと言えよう。
しかし、主役であった顕密仏教の姿を訴え、批判した改革者の登場が仏教史に刻まれている。当時の宗教的な支配に伴って、日本は身分制社会から形成しており、厳しい階級社会の中で、あくまで革新的な思潮として、国民の平等を主張し続けた法然が出現する。法然は当時権力の担い手であった旧仏教や武家を前提とした不平等な社会への批判のみならず、平安時代の権威や権益を得る手段を脅かしたことも、既成教団から強烈な弾圧及び迫害を被る原因となったようである。[2]とはいえ、やがて時代は武士政権へと移り変わるにつれ、主に国の保持を受益していた旧仏教に代わって、身分を問わず衆生全体を救済することを目指した新鎌倉仏教が出現する。このように、鎌倉新仏教は、支配階級となった武家政権から支援を得、次第に経済力を獲得するようなった。要するに、日本仏教は貴族から乖離し、武家社会を通じて、錯乱を引き起こすような過程の中で成長し、いよいよ現在の仏教に近い、在家信者向けの宗教となった。
次に、仏僧の間で、何故戒律の破壊が常態化したのだろうか。戒律無視の理由として、当時の本覚思想が考えられる。この思潮は、院政期から鎌倉時代にかけて天台宗を中心に進展した。要約すれば、これは、仏教の根本的な思想である輪廻転生から解脱し、覚りを得ることを目指す本来の仏教に対して、遥かに遠ざかった考えと言わざるを得ない。何故なら、顕密仏教側の僧侶は、この世が彼岸であると認識した以上、出家や持律の不要を主張し、誤った見解を持ったからである。ところが、源平合戦などが勃発する際、この思想の信憑性が問われはじめ、戒律無視に対する戒律復興の運動意識が高まり、仏教を見直すべく、数多くの僧侶が渡来し、改めて大陸から仏教を伝達させようとした。本覚思想に基づいて軽視されていた戒律の回復の必要性を訴える運動意識が高まった。再び仏教史で行われた仏教改革運動は、戒律の興隆が広まるに従い、持律の厳しい禅律僧が鎌倉幕府から壮大な支援を得ることとなり、海路の整備及び交通費はさることながら、顕密寺社の修造、または再建も活発に行われた。当時、港町で海外貿易の拠点であった博多は、禅宗、言い換えれば大陸世界への扉となった。最初の仏教伝来は、外交的な事情を背後に行われたと同様に、この場合は経済との密接な関係なくして語れない程である。南宋にとっては、日本が資源に満ちた重要な地であった。師弟による口伝が重んじる禅宗を学ぶべく、大陸に赴任した僧侶の必要性と相まって、必然的な結果として、改めて仏教を通じて経済的活動たる貿易の促進と繋がったと考えられる。そのように、南宋禅宗界は日本を新たな宗教市場と見做し、貿易や禅宗を展開させるべく場として博多にて日本初の禅寺が建立された。また、さらなる根拠として、交易での結びつきが強かったとされる博多と鎌倉、且つ京都も禅宗に影響されたことが一目瞭然であり、述べるまでもない。
なお、他の仏教国に類しない日本の寺院の特徴として、「檀家」が挙げられる。この檀家制度は、江戸幕府が、厳格にキリスト教を弾圧した頃のものである。禁止令を下し、仏教徒としての証明書となる「寺請証文」を全国の寺院に発行させた。全ての人口は、仏教寺院に帰属することを余儀なくされた。このように、幕府は檀家による菩提寺への定期的な参拝や布施などを義務化し、安定した財政基盤を維持しようとした。換言すれば、収入の安定を持続するために、お寺は行政機関の一環として管理されたとも言える。[3]また、明治時代になると、政府が神道国家主義を政策に推進し、「神仏分離令」が施行された頃、「廃仏毀釈」、いわゆる仏教に対する反対意識が激動した。一方、大方の日本仏教側は神仏分離令に記載された「僧侶肉食妻帯蓄髪、(中略)」を受容したことより、他の仏教国と比較すれば、日本仏教は尚更新たな構成するようになった。
おわりに、前述したように、約1500年前に大陸から伝播した仏教は、時には支配者に力を与え、時には苦悩に苦しむ民に和らぎをもたらしたが、本レポートで考察したように、日本仏教の発展は文化的な側面はもとより、政治や経済の側面を踏まえずに語れない程、関わりが深いことを証明してきた。日本仏教の特色は、社会から退散した本来の仏教に留まらず、日本の沿革、いわば政治や経済の発展に伴う荒波と共に、盛隆、或いは衰退したことがその明白な根拠に相当すると考える。
参考文献
梅原猛・町田宗鳳(2001)『法然のゆるし』株式会社新潮社
大山 誠一(1996)『「聖徳太子」研究の再検討(上)』弘前大学國史研究 100, 4-21, 1996-03
小原仁(2007)『中世貴族社会と仏教』吉川弘文館
鈴木 隆泰 (2005)『日本仏教は「葬式仏教」か
』山口県立大学國際文化學部紀要 11, 31-44, 2005-03-25
中島隆信(2006)『お寺の経済学』東洋経済新報社
保坂俊司(2010)『史上最強・仏教入門』ナツメ社