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domingo, 24 de febrero de 2013

西の京で出逢った 大内義隆とザビエル El encuentro entre San Francisco Javier y Ouchi Yoshitaka







以前フランシスコ・ザビエルが大道寺で布教を行っていたと言われる井戸跡の看板西訳の翻訳に携わったことをきっかけに、大内義隆とフランシスコ・ザビエルの関係に興味を持った。大内義隆とザビエルの間柄や二人の出逢いに縁を感じ、考察することにした。「西の京」と呼ばれる程、繁栄をもたらした大内文化に満ちた山口にはかけがえのない出逢い、言わば西洋と東洋における異文化の遭遇とも見受けられよう。大内義隆の菩提寺である龍福寺の境内にある石碑には、「討つ人も、討たる人も諸ともに」と大内義隆の辞世の句が刻まれている。その代わり、1552年にザビエルの手紙により、「山口では私の生涯で、これほど霊的な満足を受けたことは決してなかった」と述べられている。昔は現在と比べると、異国で生活を送ることにあたって、葛藤たる出来事や困難をきわめたことを察するにかたくない。にもかかわらず、ザビエルが円滑な表現で人生の一部として語られていることは一目瞭然である。
まず、大まかにザビエルと日本の出会いについてである。鹿児島に上陸してから山口に立ち寄ったイエズス会宣教師ザビエルが大内義隆に出逢った。しかし、ザビエルの思い通りにはならず、布教の許可は下りなかった。念願の天皇との謁見を望み、京都へ赴いた。上洛を遂げたものの、「国王」との面会どころか、応仁の乱により当時の京都は動乱に陥っていたため、わずかな11日間滞在し、都を去ることを余儀なくされた。大内氏の下での保護を求めて、1551年に再び山口を訪れた。かつて初面会で布教の許可を得られなかったザビエルの姿勢がどうのように変わり、大名からの許しを得たことは興味深いことである。「大ザビエル展」という本には、以下のように記述されている。「イエズス会士は常に人々の改宗を心掛けたが、それが叶わない場合、少なくとも大名たちの歓心を買うことに努めたと思われる。(中略)こうした考え方に無理があり、偏った見解であるように思われる。(中略)イエズス会士が大名の改宗や愛顧などを得ようと、その領地の全住民が平和的に、且つ自由意思に従って改宗できるようしたと彼らは考えたのである。」
前述に引用したように、このような謁見の念願はただより平和的宣教を成すために行われたと受け止めることができる。次に、改めて義隆と面会の機会が決まった頃、宣教師と仏教との間に宗論が続く一方で、ザビエルが僧侶との衣裳の相違に気が付き、身だしなみに大きな変化があったようである。日本では普段、僧たちは絹の着物を用いるのに対して、イエズス会の質素な身なりでは、どうやら相手にされないだろうと悟ったのである。したがって、謁見の目標であった義隆に値するような豪華な祭服をまとうと同時に、布教許可を得んがためのさまざまな珍妙な品物を贈呈したことにより、大内義隆に差し入れたと、テキストにも記されている。
大内義隆はザビエルの一行の献上品を己の権威の証拠と考え、宣教師らはインドから来日した仏僧だと認識した。キリスト教さえ理解していなかったとはいえ、仏教理解の知識が豊富であったと
思われる大内氏が宣教師たちに多種な形で援助を与え、住居として廃寺も提供した。二人の間に共通性が生じ、交互に関心があったのではないかと思う。贈り物の中に、室町時代の日本には到底手に入れられないものばかりがあったとはいえ、仏教との対立が反発を及ばしつつあった山口でキリスト教の布教を許す程、貴重な品があったのだろうか。ザビエルが携えたものは、本来天皇に差し

出すつもりだった品々、すなわち、宣教師の一行の最も大切な生産物だった。その中には、時計、眼鏡、望遠鏡、オルゴール、火縄銃、織物、ガラスの器などがあったと記録されている。
献上品などの影響で布教の許可を得たようにテキストに記されているものの、ザビエル記念聖堂やザビエル城(スペイン、ナバラ州)などに保管されている当時の義隆とザビエルの面会が描かれている資料、あるいは掛け軸を見てみると、どうやら二人とも興味深そうに見つめ合っていることが窺える。出会ったことのないような人と初対面における緊張感を抱き、珍しがりながら異国の人間の価値観などに気づかされ、お互いの見解を尊重し合い、興味を持ったのだろうか。ザビエルと出逢った時の大内氏の経緯について触れたい。
大内義隆の時代、大内文化の最盛期であり、都から多くの学者や僧を招き、講義の内容にも論及されたように多くの寺社を勧請した。日明貿易で繁盛していた大内氏の城下町山口には、文化人が多く集まり、儒学や和歌などの古典の講義が盛んであり、大内版と呼ばれる書籍の出版も行われたようである。義隆が人生の中で分岐点となる出来事、すなわち、学芸の道に踏み込み始めた契機を見つけた。天文111542)年に、出雲に出陣した時、月山富田城を攻囲したところで、尼子晴久に大敗し、養子であった大内晴持を喪失した結果、政治に興味を無くししまい、学問を専心するようになったと考えられる。軍事に対する関心が鈍り、文化を重んじた義隆の好奇心は相当なものだったと想像できよう。大内義隆は仏教に対する理解が非常に高かったと思われており、ザビエルとの会話も高い水準で遣り取りをしていたと推測できる。このような会話の中で、義隆がザビエルの話を聞き、信憑性があったと見抜いたと思われる。
ザビエルにせよ、義隆にせよ、同じ時代に生まれ、同じ時代に去った。いずれにしろ、なおやりたいことが残ったまま、先に他界を迎えたと推測できる。義隆は霜の如く儚い人生を歩み、雷のように一瞬の存在であることを悟り、仏が様々に姿を変えて現れるが、それはあるがままの姿にこそ真実があるということを、私たちに伝言を残したようである。それに、遥かな大地から山口に移動し、沢山の場所を訪れたのち、山口での滞在に人生で最も霊的な満足を覚えたとザビエルが述べた。全国の中で最も賑わっていた大内文化のやまぐちの独特の美しさや文化的な側面などに魅了され、霊的に偲びを覚えたのだろうか。イエズス会の記録により、山口においては500人の洗礼ができたと知られている。あくまでキリスト教を知らない人たちの伝道に一生従事したザビエルにとっては満足感や達成感を覚えたに相違ない。



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